2024年4月10日水曜日

魏志倭人伝から見える日本 のPDFファイル改定

 2000年に「弥生の興亡」を公開した時、ユニコード文字はまだ整備されていなかった。WindowsのShift\JIS外文字はMac(マッキントッシュだよ)では表示できない可能性があったので、Mac使用者用にPDFファイルを作った。現在ではそんな心配はいらないので、外そうかなとも考えたのだが、PDFファイルを印刷して読んでいるというメールを何通かいただいたことがあり、そういう用途もあるかなと思い出して、改定することにした。以前は作るのに難航したように思っていたが、ワード2010で簡単に作ることができた。何を使っていたんだろう。画像を入れた所では行頭の空白が効かなかったりとか思い通りというわけにはいかないが、読むのに問題ないというレベルには仕上がった。プロバイダーのサイト使用枠が一杯になってしまったらしく、PDFの注をUPできなかった。無料サイトを選んで現サイトを分割するか、使用量を払って、現サイトを拡張させてもらうかとか考えている。大した金額じゃないんだけど。

eo光以前は50メガバイトまで使えますという所ばかりで余裕だったのだが、回線事業者とプロバイダーが一体化して手続きが簡単だし、なにより潰れないでくれという思いがあってeoに決めた。その点では正解だったようだ。

2024年3月14日木曜日

百済、漢城(ソウル)付近で、日本型埴輪出土

 「大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。この遺跡は、福井洞393番地の霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認された。百済時代に国が運営したとみられる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)からわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌して物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきた場所だ。関心が集中した埴輪の破片は、2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点と共に発掘された。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。

 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚きを隠せずにいる。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、現在のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)や京畿道城南市一帯にあたる旧漢城地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪の破片の発見で、百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住した居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。」


 上記は、三月八日のハンギョレ新聞の記事の抜粋である。朝鮮半島で前方後円墳が発見されたり、日本の関与が徐々に明らかになってきた。「魏志倭人伝から見える日本、1.邪馬台国か邪馬壱国か?」(https://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_1/htm)で、記紀の神功皇后に関する記述がほぼ真実を伝えていることを解説したが、それを裏付ける考古学的データが発見された。私にとっては喜ばしいことである。韓国の人は認めたくないであろうけど。

2024年3月12日火曜日

左利き用マウス

 マウスの左ボタンが反応しなくなった。パソコン関係ではマウスが一番壊れやすく、買い替えが多い。値段的にも消耗品レベルではあるけれど。

パソコンを使い始めたころ、右手でマウスを使うのでは、右指の負担が大きくなりすぎると思い、左手で使うようになった。それで三十年以上経つ。最近、左利き用マウスが販売されていることを知り、どんなものか試したいと思っていた。

近所の店にはエレコムの右利き用しか置いていなかった。難波のエディオンで、ようやくサンワサプライの左利き用マウスを見つけて購入。有線、コード長は1.5mで1300円ほど。エレコム製はどこへ行っても右利き用しか置いていなかった。

使い勝手は、これまでで最高である。当然、持ちやすく手に馴染むし、ボタンも反転させてあるから、人差し指ダブルクリックでファイルを起動できる。これまでは中指を使っていた。まだ慣れていないので、しばしば押し間違えるが、すぐに慣れるだろう。今後は左利き用を買う。販売をずっと続けて欲しいものだ。左利きは少ないが、私と同じような考えの人間も、きっといるはず。

2024年2月8日木曜日

帯方郡太守、張撫夷に関する記述を一部修正

 「魏志倭人伝3」末尾に書いた張撫夷のことを一部修正。晋から張撫夷と名乗れと与えられたのではないかと書いたが、諡号として与えられたと考えた方が自然だと思って修正。張政は諱だと思えるが、張何とかと名乗ってきた功績のある人間に対して、改名しろとは言わないだろう。死後、その功績を記念して張撫夷という名を贈ったのだと思える。

魚陽張撫夷の魚陽も住んでいるというわけではなく、本籍地のようなものだとわかって記述を修正。魚陽の張氏の系統なのである。

正しい歴史を掴むために、知識はいくらでも必要だ。

2024年2月5日月曜日

魏志倭人伝4、卑弥呼の鏡に東大寺山古墳出土の鉄刀の史料を追加

 出雲に国を作っていた越人は、大和へ移動して邪馬壱国を建て、その同盟国と女王、卑弥呼を共立して、公孫氏の帯方郡に保護を求めたのです。卑弥呼と公孫氏の関係は事実と考えて差し支えありません。漢は卑弥呼一族の敵で、それと対立した公孫氏と結ぶのは必然と言って良い。奈良県天理市櫟本町にある和爾氏系(=物部系)と思われる東大寺山古墳から、「中平(184~188))」という年号の記された鉄刀が出土しており、公孫氏との交流を示唆しています。霊帝の184年(中平元年)、黄巾の乱が起こり、これ以降、漢は大混乱に陥って滅亡へと向かいます。漢、中央政府との交流は考え難いのです。

2024年1月24日水曜日

魏志倭人伝から見える日本5、魏志倭人伝の補足「4、狗奴国と紀の国」にデータ追加

紀伊国続風土記から、貴志川町国主(紀の川市)の大国主神社が有力社であったことを示す以下のデータを追加 

紀伊続風土記、那賀郡・貴志荘・国主村には「昔は六十六ヶ国より種々の備物を以て当社の祭事に供へしに因りて其国々の国司より備物の料として此地にて方一里の地を神田と定め大贄の料とせり今土地の字に越中芝。尾張田、阿波小路、土佐畑、美濃田、因幡などという国号を以て田地の字に呼ひ来たれるは其の遺称なりといふ」と記されています。

国主の南方にある高津もコウヅだと書いていたのに、江戸時代はタカスだったとわかり削除。以前、応其(オウゴ)という地名がコウゴの訛だろうと書いていたのに、応其という坊主の名前に由来するとわかって削除したことがある。紛らわしい名前を付けやがって迷惑な坊主だ。補強資料追加はうれしいが、修正、削除はうれしくない。

2023年11月9日木曜日

後漢書の「茹」の意味

 以下の文を「魏志倭人伝から見える日本2」に付加。

「茹」は食う、菜を食う意味。「わが国ではユヅと訓じ熱湯にて煮る意」と辞書にあります。中国語では「茹(ゆ)でる」という意味はない。

魏志にある「倭地は温暖にして冬夏生菜を食う」と後漢書の「気は温腝にして冬夏菜を生じ茹す」は、

後漢書が菜を茹(ゆ)でて食べていると言っているのではなく、魏志と同じ意味を別の言葉で語っているだけである。

わかりきった文字と思っていても、日本語とは意味が異なる場合があり、油断は禁物。漢文の解釈には「手間を惜しまず辞書を引く」という地道な作業が必須である。日本文のための漢和辞典では心もとない。漢文を読むための漢和辞典を。講談社の「大字典」がお勧めである。

後漢書の気「温腝」の「腝」は日偏の「日耎(ダン)=煗」(フォント無し)が「暖」と同じなので、転写間違いで月偏になったと考える。

2023年11月7日火曜日

ゴジラを見る

 一番奥のエスカレーターで四階へ上がると、左手が映画館だった。中へ入ると壁際に入場券の自動販売機が置いてある。ゴジラもやっていた。映画を選んでタッチパネルを押す。14:05分からのゴジラはガラ空きである。なんせ平日の昼間。座席も選べるようになっているのか。「ふーん!」とパネルで選ぶ。お一人様。2000円。最後に支払い方法。「現金はご使用になれません。」「ん・パァーン」見てやるもんか。三階へ降りて、タリーズコーヒーでアイスコーヒーを飲む。柔らかい椅子に座って、買ったばかりの本を読む。コーヒーを飲み終えたころには頭も冷えてきた。現金を使える券売機があるかもしれない。もう一度、映画館へ。四台の券売機のうち三台は現金が使えて、よりによって、一番奥の使えない券売機を選んでいたのである。ラーメン屋なんかでもタッチパネル注文、セルフ支払いになって、おじいさんは戸惑うばかりである。まあ、なんとか予定通り、ゴジラを見ることができた。

2023年10月31日火曜日

徐福のレポートに文章追加

 「徐福は日本に来たか、澶洲は何処か」がちょっと取っ付きにくい感じなので、徐福以前のデータや徐福問題のあらましなどを追加し、入りやすくした。隋書の秦王国のデータも追加。

日本史とは関係がないと解っている人がほとんどなので、あまり読んでもらえないようだ。

2023年10月20日金曜日

帯方太守、張撫夷のことを追加。

「魏志倭人伝から見える日本、3」の最後に帯方太守、張撫夷に関する以下の文を追加した。

このことは森浩一氏の「倭人伝を読みなおす」で知ったのですが、帯方郡治と目される北朝鮮の黄海道石城里の北方八キロにある方墳から「使君帯方太守張撫夷塼」「張使君」「大歳在戊魚陽張撫夷塼」「大歳申魚陽張撫夷塼」などの銘文のある塼が発見されており、戊申年(288)に亡くなった帯方太守、張撫夷の陵墓であることが明らかになっています。撫夷という名は「夷を安んじる」という意味だから、これは帯方郡使、張政が改名したものではないかと森氏は言います。確かにそう思われる。「使君」というのは倭に使者として派遣されたことを表すのだろうし、「張撫夷」と名乗れと晋から与えられたものではないか。魚陽という燕より北方の出身だから、日本はさぞ暑かっただろうとも思われます。壱与は魏を滅ぼした晋への怒りから交流を断ったのではなく、「大変だろうから、帯方郡と連絡していれば良いよ」と免除されたのかもしれません。張政が帯方太守に昇進して張撫夷と名乗っていたのなら、その可能性の方が強そうです。

死亡年は288年説と348年説があるということだが、288年で決定である。倭はまだ女王、壱与の時代が続いていただろう。正始八年(247)に帯方郡使として倭へ派遣され、十六年後の景元四年(263)年に帰国し、その後、帯方太守に昇進。晋の武帝(司馬炎)、太康九年(288)に死去したわけである。正始八年の41年後なので、倭に派遣された当時は、健康で活発な三十代と思われる。